第二次東トルキスタン共和国 1944-1949

第2次東トルキスタン共和国[SherqiyTürkistanJumhuriyiti]は、1944〜1949年に存在した短命の独立国家でした。この独立国家は、20世紀に東トルキスタンのウイグル人やその他のトルコ人系人々が自分の近代国家を確立するため、2度目に成功した試みでした。

第2次東トルキスタン共和国は、東トルキスタンに住むウイグル人と他のトルコ系人々:カザフ人、キルギス人、ウズベク人、タタール人、乃至モンゴル人、シボ人を含む多民族が力を合わせた独立運動の主要な産物でした。

1949年8月における中ソ共産主義勢力の陰謀である「飛行機墜落事件」による指導者の暗殺と、後に新しく樹立された中国共産党政権=中華人民共和国が侵略・占領した結果、第2次東トルキスタン共和国は1949年12月22日に崩壊しました。しかし、この独立国家は第一次東トルキスタン共和国(1933-1934)と同じように、独立した東トルキスタン共和国の再建を目指す現代ウイグル人及び他のトルコ系人々の独立運動の基盤と灯台として機能を果たしてきました。

第二次東トルキスタン共和国ETRの起源

(ETR は East Turkistan Republic 東トルキスタン共和国の略称)

1934年から1943年までに、東トルキスタンは、ソ連の支援を盾にした漢人軍閥盛世才によって統治されていました。 1937年のウイグル蜂起を契機に、盛世才は民族虐殺政策に転換し、ファシズム支配を始め、ウイグル人や他のトルコ系人の官僚、学者、宗教家、知識人などを逮捕、拷問、殺害しました。 逮捕された人の中、政府副主席ホジャ・ニヤズ(盛世才から「永世の総督」という称号を授与された)のようなウイグル人官僚もが含まれていました。 盛世才はこの期間中、ウイグル人などを20数万人投獄、惨殺しました。

デリカン・スグルバエフ将軍
– 東トルキスタン国軍副司令官

1941年に、オスマン・イスラム(オスマン・バトール=英雄オスマンの意)とデリカン・スグルバエフは、アルタイ・コクトカイでカザフ人を動員して盛世才の支配に対する反乱を発動しました。この反乱に、 東トルキスタンに住むモンゴル人も合流して、独立要求の気運が一層高まりました。

盛世才は当初、地政学的に、親ソ政策をとり、ソ連と連携を緊密にし、国民党政権を強く拒絶と排除してきました。ドイツとの戦争中におけるソ連の劣勢を見て、中華民国南京政府(大中華主義政権)に接近し、親ソ政策から反ソ政策に転換し、1942年に東トルキスタンからソ連人員すべてを追放しました。

イスハクベク・ムノノフ将軍
– 東トルキスタン国軍司令官

1942年4月、カザフ・キルギス文化振興協会理事長イスハクベク・ムノノウはソ連国内に逃亡しました。 同じく、ウイグル人やカザフ、キルギス、タタール、モンゴル人指導者ら何百人ものもソ連に逃げ込みました。 ソ連政府は、盛世才政権を支持する政策を放棄し、東トルキスタンにおけるトルコ系民衆の独立運動を支援する政策に転換しました。

1943年初頭、盛世才は重慶に飛び、蒋介石と全面和解し、「新疆省政府」主席への就任を獲得しました。一方、同年半ば頃、ソ連の支援を得て、ウイグル人と他のトルコ系人々は「東トルキスタン民族解放組織」を作り上げました。

1944年、ソ連のドイツに対する戦争勝利の兆しが顕著になりつつある中、盛世才は東トルキスタン(「新疆」)を第18番目のソビエト社会主義共和国としてソ連邦に入る要請を記した手紙をスターリンに送りました。 しかし、何度も盛に裏切られたスターリンはその手紙を直ちに蒋介石に渡しました。ソ連の秋波を感じた蒋介石は大軍を東トルキスタン東部に配置して盛に圧力をかけました。後に盛世才は国民党政府に屈服し、農林大臣を拝命して、東トルキスタンを離れ、重慶に連れ戻されました。

盛世才が東トルキスタンを去ってから、独立運動が東トルキスタン各地で噴出しました。 1944年8月中旬、ウイグル人ゲニ・バトールが率いる「ニルカ・ゲリラ」グループが戦闘を展開し、1944年10月8日にニルカ県を占領しました。

1944年11月7日、ウイグル人アブドルケリム・アッバソフが率いる「東トルキスタン民族解放組織」は、グルジャの国民党警察本部を攻撃しました。一方、別のウイグル人、カザフ人、および他のトルコ系反政府勢力は、グルジャ市を占領するために郊外を攻撃し始めました。 11月12日、中国国民党軍が市内から逃げました。

第2次東トルキスタン共和国の内閣

1944年11月12日、「東トルキスタン国民解放組織」は、独立国家東トルキスタン共和国の樹立を宣言するために、グルジャ市のウイグル・カザフ・キルギス・クラブで大規模な集会を開催しました。「 東トルキスタン国民解放組織」の主要指導者ウズベク人アリハン・トーレ氏が大統領に選出され、ウイグル人アブドルケリム・アッバソフ氏が内務大臣に任命されて、東トルキスタン共和国の樹立が正式に宣言されました。

第2次東トルキスタン共和国の創設者は、独立宣言前に新憲法の制定を完成できずに、憲法の前身として九カ条政治綱領(Toqquz Maddliq Siyasi Programma)を公表しました。九カ条政治綱領の要約:

  1. 漢人独裁支配排除する。
  2. 民主的な政府の創設
  3. 国民に属す軍隊の創設。
  4. 各民族グループの平等。
  5. 宗教の自由を保障する
  6. 政府各級官僚民選
  7. ソ連邦との政治・経済的関係の発展。
  8. 教育、文化、健康の促進
  9. 東トルキスタン共和国におけるウイグル語の公用語化

アリハン・トーレ大統領(中央)及び東トルキスタン政府メンバー– 1945

アリハン・トーレ大統領は、1944年11月12日のスピーチで、東トルキスタン(所謂「新疆」)に対する中国の支配を激しく非難した。彼は、漢人政府に「東トルキスタンの歴史について歪曲と改竄を即座にやめ、さらに東トルキスタンの領土に対する野心を放棄し、中国本土を日本から解放する方法を見つけるべきである」と追及しました。

また、東トルキスタンの人々に、「祖国の東トルキスタンに対する中国(漢人)の独裁支配から国民全体を解放するために戦う」と呼びかけ、この戦いは国民的義務であるだけでなく宗教的義務でもあると述べました。 更に、政府評議会は1945年2月24日に以下の内容である決議No. 24を発表しました。

「東トルキスタンの独立解放の最も重要な目は、残中国(漢人)支配を倒し野蛮かつ残虐な種族主義軍隊(国民党軍)を殲滅し、我が民衆のこの数世紀以来の漢人植民者を一掃する念願を叶え、人間を大切にして、本当の各民族平等繁栄かつ富強の国家を確立することです。

東トルキスタン1000ドル紙幣– 1945

第2次東トルキスタン共和国は、様々な国家機関や省庁を包括した高度な政府、および国軍、司法制度など、近代国家のしかるべき側面を備えていました。第1次東トルキスタン共和国と比較して、はるかに専門的で堅実でした。

 東トルキスタン共和国軍

1945年4月8日、東トルキスタン共和国に軍事パレードが行われ、その場で国軍の創設が公表されました。東トルキスタン各地で反政府活動をしてきた武装グループが7つの連隊と4つの独立大隊からなる国軍に改編され、独立した国家政権下に統一されました。「兵役法」の施行によって、中国人を除く各民族の一般的な徴兵は、東トルキスタン国軍によって行われました。

東トルキスタン共和国軍

東トルキスタン共和国軍の創設– 1945年4月8日

1946年に、東トルキスタン共和国軍は現役兵が4万人と予備軍が約2万人に達しました。東トルキスタン共和国軍事省の下に、政治部、戦争部、軍事管理部、参謀部、偵察部、後方支援部など多くの部署が設置されました。当時、ソ連側は兵士の訓練に当たる以外、彼らの動きを監視するために、東トルキスタン共和国軍に軍事顧問を配置しました。

東トルキスタン共和国軍は、最初は主にドイツ製、ソ連製の武器をソ連から購入したが、後に国民党軍からアメリカ製の武器を大量に取り上げました。砲兵師団が、ソ連製大砲12門、装甲車両2台、戦車2台を保有していました。グルジャにある国民党の空軍基地を陥落させ、飛行機42機を取り上げて、自分の空軍を創設しました。

東トルキスタン共和国軍の将校-1945

1945年7月までに、東トルキスタン共和国軍は、東トルキスタンの未解放地にいる国民党軍に対して、三線作戦を発動しました。1945年9月までに、北部戦場では、タルガバタイとアルタイ地域における国民党勢力を一掃しました。中央戦場で、マナス川の西側の領土をすべて奪還しました。 南部戦場では、東トルキスタン共和国軍がテングリタグ(「天山」)山を越え、アクス地域の大半を解放しました。同時にカシュガルを解放するために、カシュガル連隊を整えました。

東トルキスタン共和国軍がカシュガル、ヤルケントなど東トルキスタン南部に進攻したニュース―が伝わると、鼓舞された現地のウイグル人と他のトルコ系人々が中国の占領に対する武装闘争を一層強めました。 東トルキスタン共和国は領土の奪還で急速に拡大していましたが、1945年10月に停止しました。

マナス川のほとりに沿った東トルキスタン国軍の装甲車部隊– 1945年9月

東トルキスタン共和国軍のウルムチ奪還を恐れ、中国国民党政権は、急遽青海省から回族(漢語を話すムスリム)軍閥馬歩方の部下馬呈祥の騎兵第5軍を派遣し、ウルムチの西側に駐屯させました。米・英の仲介で、ソ連は中華民国との関係が改善され、1945年8月14日、満州の権益を獲得するため、中華民国と「ソ中友好同盟条約」を交わし、親国民党政策に転換しました。日本が敗戦してから、1945年9月上旬までに、中国国民党政権は東トルキスタンにおける軍隊を強化するために、国民党軍所属の漢軍と回軍をあわせて10万人以上を配備しました。

ソ連側の圧力

1945年9月、東トルキスタン共和国軍はマナスを占領し、150キロ離れたウルムチにある国民党軍の本拠地を攻撃するために、マナス川を渡る準備をしました。しかし、ソ連側は、突然東トルキスタン共和国指導部に、軍事行動の全面停止を強要しました。「東トルキスタン共和国軍元帥」であるアリハン・トーレ大統領は、東トルキスタンを全面的に解放し、将来の生存を確保するために軍事作戦の継続が必要であると主張して、ソ連側の圧力に抵抗しました。

残念なことに、東トルキスタン共和国の指導者達は、1945年2月のヤルタ会議で米・英・ソなどの大国によって東トルキスタン共和国の未来がすでに密かに交渉され、乃至決定されたことをほとんど知りませんでした。ソ連は共産主義の拡大と自国覇権のために東トルキスタン共和国を犠牲にすることを既に決定していました。8月14日、ソ連は、中華民国と「ソ中友好同盟条約」を締結したことが、東トルキスタン共和国に対する全面支援をやめるだけでなく、中華民国の国民党政権と手を組んで東トルキスタン共和国を消滅する計画の予兆にすぎませんでした。

アリハン・トーレ大統領が深慮中? 1946

ソ連側は東トルキスタン共和国の指導部に、国民党政権との和平交渉に入るよう圧力をかけました。 東トルキスタン共和国の指導部は、アリハン・トーレ大統領が政府評議会からの支持者と一緒に中国と和平交渉する提案に激しく反対したため、分裂しました。 大統領は「和平交渉はウイグル人の利益を裏切る行為、革命の成果を裏切る行為、そして中国政権に支持を訴えるための行為だ」と非難しました。

政府指導者の大半からの反対に顧みず、1945年10月2日、東トルキスタン共和国政府は、中国国民党政権からの交渉呼びかけに応じる決議を発表しました。 この決議が、東トルキスタン共和国全土の独立を求め続けることを前提にして、中華民国と交渉する意思があるという内容でした。

東トルキスタン共和国と中華民国間の和平交渉 – 1946

1946年1月5日、つまり、東トルキスタン共和国代表アフメトジャン・カスミ一行がと中華民国代表団との「11カ条平和協定」を調印したわずか3日後に、中国国民党政権はモンゴル人民共和国の独立建国を認めました。 「11カ条平和協定」では、和平交渉の継続と、中国人とトルコ系民衆の間で民族平等に基づいた連合政府を組織するという合意内容がありました。後に行われた和平交渉中で、東トルキスタン共和国政府におけるアリハン・トーレ大統領派が和平交渉に反対をし続け、東トルキスタン共和国政府評議会に対して、東トルキスタン共和国は本質が一独立した国家であることを強調するように一連の決議を発行すべきであると説得しました。

通過した決議の要旨:

  • 第110号決議(1945年10月15日):11月7日を、東トルキスタン革命の記念日にする。
  • 第113号決議(1945年10月22日):11月12日を、東トルキスタン独立記念日にする。
  • 第185号決議(1946年1月5日):国家公務員の給与制度の制定。
  • 第197号決議(1946年1月12日):国家税収の税種と税率の制定。
  • 第203号決議(1946年1月13日):国家管理システムの制定。
  • 第235号決議(1946年3月5日):軍人階級昇進基準、中国貨幣の東トルキスタン市場流通の全面禁止。
  • 第249号決議(1946年3月28日):4月8日を国軍の建軍記念日にする。

1946年4月4日、東トルキスタン共和国の政府機関紙「解放された東トルキスタン」(アザットシェルキートルキスタン、無料)は、激しい言葉による「交渉は進行中」という社説を登載しました。要旨:

「もし中国政府が我々の条件に従ってすべての権力を私たちに引き渡さず、植民地政策を実行し続けるなら、我々は戦いを続けなければなりません。東トルキスタン全土を解放し、我々は自分の永遠の国家を確立するという目的を達成するまで、我々は鮮血と命を惜しまず、戦いをするしかありません。

東トルキスタン共和国の衰退

和平交渉を始めるために、重慶に遷都した中華民国政府は、国家軍事委員会政治局長張治中将軍を東トルキスタンに派遣し、「新疆省」主席に任命しました。中華民国のために働いていたウイグル人、イサ・ユスフ・アリプテキン、マスド・サブリ、およびムハンマド・エミン・ブグラ3人が重慶から張治中に同行しました。この3人は東トルキスタンにおいて有名人で、「3紳士」とも呼ばれていました。中華民国政府は、彼らとソ連の協力を利用して東トルキスタン共和国に圧力をかけて、誘惑と威嚇で東トルキスタンの上層社会を説得して、東トルキスタンの独立を中国内の自治区域に切り替えることに賛成させました。東トルキスタン共和国指導者達とウイグル人やその他のトルコ系民衆は、「3紳士」を「東トルキスタンの裏切り者」であり、「我が民族の血統を完全破壊し、我が社会を分断した国民党の子犬である」と非難しました。

Isa Yusuf Aliptekin、Mesud Sabri、Burhan Shahidi、Muhammad Emin Bughra、
国民党軍– 1947 0r 1948

中華民国との「和平交渉」は、東トルキスタン共和国政府におけるアブドルケリム・アッバソフが率いる親ソ派とアリハン・トーレが率いる保守派との内部闘争を引き起こしました。親ソ派は、和平交渉の進行につれてアリハン・トーレ大統領を徐々に排除し始めました。

1946年5月3日、ソ連政府が「最終調停案」(5月1日)を提示した後、東トルキスタン共和国代表団も追随して新案を提示しました。

  1. 東トルキスタン国軍を改編し、ウルムチ、カシュガル、アクスに一連隊ずつ配備する。
  2. 改編された東トルキスタン国軍に対する統一指揮権を持つ最高司令官を設置し、「新疆省政府」の軍事副長官に兼任させる。その人選は東トルキスタン共和国側から推薦する。
  3. 中国政府軍は、イリ、タルガバタイ、アルタイの3地域に入ることを禁止する。
  4. 政治警察を解散し、各地の警察は地元の住民で構成する。
  5. 東トルキスタンに駐屯した中国政府軍を1944年1月当時の人数まで削減する。

東トルキスタン共和国代表団と中国国民党政権の代表が「平和協定の付属文書」(二)の交渉最終段階は入った頃、東トルキスタン共和国側にいたソ連顧問は相次ぐ帰国しました。アリハン・トーレ大統領と彼の追随者らは、和平交渉に対して反対し続けたが、それを阻止できませんでした。 1946年6月6日、「「平和協定の付属文書」(二)が正式に調印された日、東トルキスタン共和国大統領アリハン・トーレは、側近の数人と一緒にソ連領事館によって拘束され、アルマトイに連行されました。以降、アリハン・トーレは死亡する1976年までタシケントで軟禁生活を余儀なくされました。

正式調印後、東トルキスタン共和国新大統領アフメトジャン・カスミは、東トルキスタンの独立権を強調し続けました。また、東トルキスタン全土(中国側が「新疆」と呼ぶ)における東トルキスタン共和国と中華民国の両方の軍隊縮小を求めました。

東トルキスタン共和国側は合意に従い、現役部隊を約12,000人に縮小し、イリ、タルガバタイ、アルタイの3地域に駐屯させ、カシュガルとアクスに治安維持のために小部隊を残し、他の地域から部隊をほとんど引き揚げました。

1946年7月、「新疆省連合政府」が設立され、東トルキスタン共和国はこの政府に参加することになりました。アフメトジャン・カスミが「新疆省政府」委員、副主席に、アブドルケリム・アッバソフが「新疆省政府」委員、「副秘書長」に就任するなど、リーダーの一部がこの政府の役職に就きました。しかし、東トルキスタン共和国の大統領として、アフメトジャン・カスミは東トルキスタン共和国の独立と統一を堅持して、1947年2月に連合政府からの離脱を正式に公表し、東トルキスタン共和国のリーダー達はグルジャに引き上げました。

 アフメトジャン・カスミはその前、代表団を率いて南京に向え、中華民国立法院で東トルキスタン共和国と中華民国の二国間関係について交渉を行いましたが、実りはありませんでした。

彼は、「東トルキスタンの人々が中国憲法で保障された権利を要求するだけに闘争を起こさなければなりませんでした」と離脱の理由を釈明しました。

東トルキスタン共和国は独立を引き続き維持し、東トルキスタン全土から中国の支配を完全に排除することを追求したが、ソ連と中華民国両大国から軍事的威嚇、経済的封鎖があったため、軍事作戦を続くことはできませんでした。 

東トルキスタン共和国の崩壊

トルファン駐屯の東トルキスタン共和国軍の将校

1947年7月12日、アフメトジャン・カシミ大統領とラヒムジャン・サビル内相が、ウルムチのソ連領事に手紙を書き、東トルキスタンとその国民の利益を守るようとソ連とスターリンに訴えた。 1947年9月10日、ソ連政府は、東トルキスタン共和国を支援する4つの提案を提示しました。 提案には、密かにトルファンのウイグル反政府勢力に軍事支援を行うこと、即時東トルキスタン共和国の軍事援助を実施すること、ウイグル人や他のトルコ系人々のアクス、クチャ、カシュガルでの反中国国民党政府運動の拡大を支援することが含まれていました。 しかし、提案の大部分は実行に移りませんでした。

東トルキスタン共和国軍の将校– 1948年2月

1948年4月24日、ソ連共産党中央委員会は、非公開に開催された東トルキスタン共和国に対する支援対策会議の内容を正式に公表しました。その対策には、東トルキスタン共和国に財政的、軍事的援助を提供すること、ソ連国内に留学中の東トルキスタン出身のウイグル人や他のトルコ系人々を東トルキスタンに送り返し、東トルキスタン共和国の行政、経済、軍事力を強化することなどが含まれました。

一方、ソ連政府当局は、東トルキスタンの地位について中国共産党との交渉を行いました。 1949年2月4日、ソ連政府当局と中国共産党との協議が行われました。ソ連政府副首相アナスタス・ミコヤンは、毛沢東、周恩来と会談しました。毛沢東は、外モンゴル(すでに独立)と内モンゴル(中国支配下)を「再統一」して、統一したモンゴルを将来の中国共産党支配の中国に組み入れることを要求しました。ミコヤンはこの提案を拒否しましたが、毛沢東は東トルキスタンに共産党が存在することについて言及しました。ミコヤンは東トルキスタンには「共産党は存在しないが、国家の独立運動がある」と述べました。毛沢東は、東トルキスタン(漢人は「新疆」と呼ぶ)を中国の領土に組み入れたいと堅持しました。また、彼は、この地域に「独立国家ではなく自治権を与える」という約束を必ず守ると強調しました。

1949年6月、ソ連当局は、毛沢東に東トルキスタンを中国領にすることを認めました。1949年6月27日、スターリンは中国共産党中央政治局委員・中央書記処書記劉少奇と同政治局委員高崗が率いる中国共産党(CCP)代表団と会談しました。 会談では、中国への3億ドルの低利融資が議論された以外に、 スターリンは米・英が介入する前に中国共産党はなるべく早く東トルキスタンに侵入して占領するよう促しました。 彼はまた、東トルキスタンには中国人口(漢人)は5%を超えないので、当地の経済発展を支配するため、中国国境の守備を強化するために、東トルキスタンを合併した後、中国人の現地人口に占める割合を30%以上に増やすべきであると進言しました。

1949年8月、中国共産党は、ソ連の斡旋で、鄧立群が率いる小さな秘密偵察チームを東トルキスタン共和国の首都グルジャに送りました。一方、アフメトジャン・カスミ大統領、アブドゥケリム・アッバソフ事務総長、東トルキスタン共和国軍イスハクベク・ムノノウ司令官、デリカン・スグルバエフ副司令官を含む東トルキスタン共和国指導者らなど総勢11人は、モスクワでの会合に召集されました。 1949年8月24日、彼らはカザフスタンのアルマトイで飛行機に乗り込みました。ソ連政府当局は、1949年8月27日に彼らを乗せた飛行機が「墜落」し、生存者がいないことを、東トルキスタン共和国教育大臣であるセイピデン・エズズに伝達しました。また、エズズに密かに北京に向かう準備を直ちに着手するよう言い渡しました。

その当時の公式記録には、アエロフロート社のIl-12P飛行機が1949年8月25日木曜日にカバンヤ山のカバンスク村(ブリヤット・モンゴル自治共和国)で墜落し、14人が死亡したと記述されていました。

しかし、1991年のソ連崩壊後、元KGBの将軍と高官数人、特にその中の一人、パヴェル・スウドプラトフ氏は、1949年8月27日、東トルキスタン共和国の指導者5人がスターリンの命令によりモスクワで殺害された事実を明かしました。 彼は、「東トルキスタン共和国指導者らはモスクワに到着してから三日後に、KGB大佐ビクトル・アバクモフによって逮捕され、旧皇帝の馬小屋に監禁されました。ビクトル・アバクモフは指導者たちを1人ひとり尋問してから、彼らを処刑しました」と証言しました。

1949年9月12日、毛沢東は東トルキスタンをできるだけ早く占領するために、中国共産党軍をウルムチに空輸する飛行機が40機必須であるという要請の電報をスターリンに送りました。一方、セイピデン・エズズ氏が他の2人と北京に向かい、東トルキスタンを中国に組み入れることに同意する秘密条約に署名しました。その代わりに、中国共産党当局は東トルキスタンの経済発展を支援して、3〜5年以内に東トルキスタンから部隊を撤退するという約束を交わしました。

1949年10月1日、東トルキスタンの侵攻に備えて
甘粛省に待機する共産党軍隊

1949年10月1日、毛沢東は中華人民共和国建国を宣言しました。 1949年10月12日、郭鵬と王恩茂が率いる中国人民解放軍、(PLA、中国共産党軍)第2軍は、酒泉―玉門―安西線を沿って、東トルキスタンと中国との国境線に向かい、中華人民共和国の東トルキスタン侵攻を正式に開始しました。1949年10月18日までに、中国人民解放軍はすでにウルムチに近いトルファンに到着していました。 1949年10月14日、スターリンは毛沢東に電報を送り、飛行機40機を発遣し、中国人民解放軍をウルムチに空輸することに同意した旨を伝えました。到着予定日は1949年11月1〜3日でした。

東トルキスタン共和国の軍事指導者達は不安になり、東トルキスタン共和国を守るための準備を政府に求めましたが、セイピデン・エズズとソ連当局によって阻止されました。

中華民国の傀儡「新疆政府」主席ブルハン・シャヒディと現地駐屯の国民党軍司令官陶峙岳は決起して中国共産党に寝返りしました。1949年12月7日、ウルムチ周辺に駐屯していた国民党軍の7万人以上の部隊が第22軍団として共産党の中国人民解放軍に編入されました。

中国共産党軍(中国人民解放軍)がウルムチ、トルファン、クムルを含む東トルキスタンの東部の大部分で支配権を固めた直後、セイピディンは1949年12月中旬に、東トルキスタン共和国の指導者たちが「飛行機墜落事故で死亡した」と公表しました。

東トルキスタン国軍を中国人民解放軍の
第5軍団に改編するパレード。 – 1949年12月22日

1949年12月20日、中国人民解放軍は東トルキスタン共和国の首都グルジャに入城したが、12月22日に東トルキスタン共和国は形式上正式に解体しました。 1949年12月22日、東トルキスタンは独立を失い、中国共産主義者による東トルキスタンの占領は70年間を経て、今日まで続いています。 

余波

中国共産党軍は東トルキスタンに侵入して、占領拡大につれ、東トルキスタンにおける親国民党のウイグル人官僚・随員たちが、1947年に中華民国に任命された「新疆省政府」事務総長イサ・ユスフ・アリプテキンに追随して、インドに逃亡しました。「新疆省政府」副主席ムハンマド・エミン・ブグラも、インドに逃げました。1950年初頭に彼らはカシミールに辿り着き、ホタン、カシュガル、ウルムチ、および東トルキスタンのその他の地域から1万1千人以上のウイグル人も後を追ってきました。その時、アリプテキンは、「東トルキスタンの事務総長」という肩書で、米国、インド、トルコ政府と連絡を取り、ウイグル人のトルコへの亡命支援を要請しました。

国民党(中華民国)のために働き、クムルで活躍していたウイグル人ユルバルス・カーンは、1949-1950年に中国共産党に抵抗していたウイグル人や、カザフ人らを率いて中国人民解放軍の部隊や車両を襲撃し、侵入を阻害したが、後に敗れ、1951年初頭インドに逃げ込み、ジャカルタ経由で台湾に辿り着きました。蒋介石はユルバルス・カーンを「新疆省主席」兼軍司令官に任命したが、彼は1971年にその地位を保持したままこの世を去りました。

オスマン・バトールの執行-1951年4月29日

一方、ウイグル人とカザフ人は中国共産党の侵略に抵抗を続きます。その代表的な指導者が、元東トルキスタン共和国のアルタイ知事オスマン・イスラム(オスマン・バトール)でした。彼の部隊は、ゲリラ攻撃を展開し、中国人民解放軍に対して、甚大な損害を与えました。しかし、1951年3月、オスマン・バトールが捕虜になり、4月29日に中国共産党当局によって処刑されました。オスマン・バトール死後、彼の追随者の多くはインドに逃げ、後にトルコに安置できました。

中国人民解放軍は東トルキスタン南部に向かって進軍を強行し、ホタンとカシュガルで抵抗に遭ったが、すぐに抵抗を抑えました。しかし、中国の占領に対する各種規模の抵抗は東トルキスタン全域で続きました。

1954年までに、中国共産党は東トルキスタン全土を完全に制圧し、植民地政策を始めました。毛沢東は、侵入した共産党軍と帰順した国民党軍を合わせた漢人兵士とその家族30万人を東トルキスタンに定住させるために、「新疆農耕建設兵団(準軍事部隊、現新疆生産建設兵団」)を設立しました。この兵団は土地、水源地、鉱山、森林などあらゆる天然および鉱物資源を略奪し、中国共産党の本格的な植民地政策を強化しました。一方、現地の抵抗や不満を抑えるためにいつも出動し、中国人民解放軍を支援してきました。共産党当局の奨励で、毎年数十万の漢人が移民され、2010年現在、新疆生産建設兵団の人口は、260万人に達しています。

1950年代半ば、ウイ\グル人や他のトルコ系指導者たちは現地で実施されてきた政策を見て、北京の中国共産党当局に何度も手紙を書いて、彼らに約束を守るようにと要請しました。 しかし、共産党当局は東トルキスタンを「新疆ウイグル自治区」として公式に成立させることで対応し、元東トルキスタン共和国指導者を含む数人のウイグル人に「自治区」の高い公職を与えました。

一方、独立を求める元東トルキスタン共和国の役人一部が、1946年に密かに設立した東トルキスタン革命党を維持しました。1956年、中国の抑圧的な支配に苛立って、中国共産党当局から「新疆ウイグル自治区の副主席」に任命された元東トルキスタン国軍将校メンティミン・イミノフを筆頭に、ウイグル人や他のトルコ系人からなる重要な政府高官51人が連名して中国政府首相周恩来に「東トルキスタンから軍隊を撤退するという当初の中国政府からの約束を守るように要請する」という内容の手紙を送りました。

メンティミン・イミノフ将軍(二列目右1番)と、東トルキスタン国軍の他の上級将校(東トルキスタン国軍が中国人民解放軍第5軍団に編入後)

イミノフは、文化大革命(1966年~1976年)初期に、拘留され、殺されました(中国当局は彼が病死したと発表した)。 手紙に署名した他の人々が追放・監禁されたり、密かに処刑されたりして厳罰されました。当時、中国共産党当局は「反革命分子」、「外国のスパイ」、「地方民族主義者」というレッテルを貼ってウイグル人を数十万人逮捕し、その中に数多くの人が処刑されました。また、数百万の家庭が中国共産党当局の制裁対象になっていました。

振りかえてみると、中国共産党は東トルキスタンに侵犯した時から、この70年間、土地改革、反右派闘争、反地方民族主義者、大躍進、文化大革命、一人子政策、国家分裂反対、宗教弾圧、テロ摘発など一連の政治運動を発動した結果、数百万人のウイグル人が命を落としました。つまり、残忍な共産党は東トルキスタンという地名を抹殺するだけでなく、ここのトルコ系原住民、特にウイグル人の根絶を計画・実施してきました。それを担当した共産党官吏が、残忍な王震、王恩茂、龍書金、王楽泉、張春賢、陳全国などでした。

特に、2017年から、陳全国がウイグル人と他のトルコ系の人々に対して行われてきた文化破壊、宗教弾圧、社会監視、大量強制収容、大量殺戮、大量失踪、無断連行、強制労働など一連の反人類的民族浄化の犯罪行為はファッシスト・ヒトラを数倍も越えます。

21世紀に至って、今現在、陳全国は堂々と、また急ピッチでその犯罪行為を進めています。世界中の国々が沈黙を保つ中、そこの人々は抵抗すらできません。